静岡県袋井市在住 高橋さん    『人車、馬車、牛車、馬力町』
先日の講座で資料として見せていただいた新聞紙面の中で、小さな一つの記事に関心を持ちました。以下はその興味の赴くままに記したものです。

●人車、馬車、牛車
人車という言葉、これが何十年という昔に私を引き戻してくれました。母から、若い時に人車に乗ったという話を時々聞かされて、客が乗った車を人が押してゆく光景を想像したものです。中泉(現在の磐田)駅から池田村(現在の豊田町)まで軌道があったようです。ここからは芋蔓式の連想です。
戦争中ガソリンの1滴は血の1滴と言われました。当時勤労動員で働いていた私は、完成した飛行機のプロペラを馬力(荷車)に積み、空襲警報の合間を縫って運搬したことが何度もありました。歩きながらの馬の放尿が折からの西風で吹きかかり、身をよじって避けながら笑いこけたりもしたものです。今にして思えば、1機でも多く一刻でも早くという瀬戸際に、馬力で運ぶのが国力の実態だったのです。最優先に燃料が配給された筈の航空機関連工場にして然り。あの零戦の完成機体も、名古屋から小牧まで牛車で運ばれています。牛車の方が動揺が少なく機体が傷まないと言うのですが、アメリカでは工場に隣接して飛行場を作り、完成する端から飛び立って空輸したのです(戦後になって、その牛車の運送に携わった人から話を聞いた事もあります)。
法多山ゆきのバスも再度、馬車の出番となり、家の近くの坂道を馬がトコトコ曳いて行きました。終戦の直前か直後には東海道線の駅構内で、こともあろうに真っ黒い牛が2、3輌の貨車を引張っていました。上着か何かの布を肩にあてがって、全身の力で貨車を押していた屈強な男達の姿はもう見られなくなっていました。言いようのない暗い気持ちになったものです。

●馬力町
その昔袋井は、個人業者の乗合自動車、タクシー、鉄道馬車、軽便鉄道等が街道を行き交い、交通の要として賑った町です。その痕跡は、東の静岡鉄道、西の遠州鉄道が接する土地として現在に残っています。その町に、大正末期から昭和初期にかけて馬力町と呼ばれていた一画があったと言う事を、つい最近になって郷土史資料で知りました。こうなると空想は駆け巡って止らなくなります。
このような話も、例えば「馬力町」と入力すれば一発で検索できる時がやってくる…なんとも楽しいことです。