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『新聞の歴史』
静岡県近代史研究会 川上 努

(1)新聞のはじまり

我が国最初の新聞は、1862(文久2)年、幕府の洋書調所から刊行された、オランダ総督機関紙「JavasheCourant」を日本語訳した「官板バタヒア新聞」である。
その後、明治維新前後になると佐幕派、新政府派のそれぞれから木版刷による冊子型の新聞が発刊される。やがて自由民権運動の広まりに伴い、新聞は人々の啓蒙に重要な役割を果たすメディアとして注目される。官権派の代表である「東京日日新聞」は、1872(明治5)年2月創刊、東京最初の日刊紙で、現在の「毎日新聞」の前身にあたる。民権派の代表である「郵便報知新聞」は1872年6月創刊、1895(明治27)年「報知新聞」と改題する。民撰議院設立建白書を掲載したことで教科書でもおなじみの「日新真事誌」は、1872年3月に「Japan Daily Herald」のジョン・ブラックが創刊したものである。
政論紙の大きな判のものは「大新聞」とよばれる。それに対して、政治的に無関心な庶民や婦女子を対象した、口語体でふりがな付きのものは「小新聞」とよばれる。1874(明治7)年11月東京で創刊された「読売新聞」、1879(明治12)年大阪で創刊された「朝日新聞」などは小新聞としてスタートした。
(2)明治時代の静岡県の新聞

廃藩置県により明治政府の基礎が整うと、国家の施策を徹底する必要から政府が新聞発行を奨励、各県の主要都市で地方紙が発刊される。静岡県では以下の新聞が発行された。
  • 「足柄新聞」:1872(明治5)年11月、小田原共同会社から発刊。
  • 「静岡新聞」:1873年2月 静岡提醒社から発刊。半紙7枚綴りの木版刷、1部2銭。発行責任者は庵原郡庵原村出身の山梨易司。主筆小出東嶂、記者平山陳平。1週2回発行予定が、断続的に40号まで発行。
  • 「浜松新聞」:1873年5月浜松聚珍社から発刊。和紙16ページ綴りの石版刷、1部2銭。
  • 「重新静岡新聞」:1876(明治9)年5月6日発刊。「静岡新聞」を改題、紙面の一新をはかった。木版活字を用いた一枚刷り。11月1日から隔日発行。
  • 「浜松新聞」:1876年8月30日 浜松明九社から発刊。
  • 「静岡新聞」:「重新静岡新聞」を1877(明治10)年3月26日から改題。紙面を少し広げ、紙を洋紙とした。1部1銭、1か月12銭。この年の内国博覧会で賞を受ける。翌年9月1日から日刊化。社内の派閥争いにより平山陳平を盟主とする一派が退社したため、そのあおりで1879(明治12)年8月に一時休刊となる。
  • 明治十年代の自由民権運動の高揚で、静岡県でも1879年1月12日、最初の本格的な演説結社参同社が提醍社退社組の平山陳平らにより組織され、新聞発行の準備が進められた。
  • 「函右日報」:1879(明治12)年6月1日、参同社から発刊。社主榊原正吉、編集長日野清芳、印刷兼発行人平山陳平。翌年1月参同社を離れ、平山の兄で県会議長の磯部物外を社長に迎えて函右日報社を設立し、そこから発刊する。
  • 「静岡新聞」:1880(明治13)年2月26日再刊。小型のタブロイド版で、記事は平易で柔らかく、大衆向けの編集となる。1881(明治14)年4月12日の1000号記念で、普通の大きさに戻る。
  • 「東海暁鐘新報」:1881(明治14)年10月1日、前島豊太郎の攪民社から創刊。前島は静岡古庄出身で、1879年11月21日広瀬重雄、大江孝之らと民権結社静陵社を組織し、政談演説会を行った。攪民社には土居光華、荒川高俊らも参加しており、新聞発行の一方で政談演説会を行った。
  • 1881年12月10・11日静岡県改進党が結成、1882年1月岳南自由党が結成される。「東海暁鐘新報」は自由党系、「函右日報」、「静岡新聞」は改進党系であったが、1882年6月浜松立憲帝政党(7月30日東海立憲帝政党となる)が結成されると、「静岡新聞」は帝政党系機関紙となる。
  • 「静岡大務新聞」:1883(明治16)年9月24日の立憲帝政党の解党により、1884年2月10日、「静岡新聞」を改題し、静岡大務新聞社から創刊。「大務」はロンドンタイムズに由来すると言われる。翌年5月31日「函右日報」を合併。
  • 「暁鐘新報」:1887(明治20)年12月20日、暁鐘新報社から創刊。前島豊太郎の長男格太郎が静岡事件により連座したが、無罪放免となり、再出発したもの。1891(明治24)年10月13日廃刊。
  • 「静岡民友新聞」:1891年10月20日、静岡民友新聞社から創刊。「静岡大務新聞」の内紛より、山梨易司らが暁鐘新報社の機械類を引き取り発足した。社長井上彦左衛門、社主山梨易司で、社長の井上は当時改進党所属の衆議院議員であったため、「静岡民友新聞」は改進党の機関紙となった。
  • 「静岡新報」:1895(明治28)年1月4日、「東海公論」(沼津で発刊していた自由党系の「岳南新聞」を改題し、1894年6月15日東海公論社から創刊)を改題し、静岡新報社から創刊。自由党県議大橋頼模が主であり、「静岡新報」は自由党機関紙となった。
これにより、「静岡民友新聞(以下民友)」「静岡新報(以下新報)」の二大新聞時代が始まる。「新報」は自由党、憲政党を経て政友会の機関紙、「民友」は改進党、進歩党、憲政本党と反政友会系の機関紙となる。政友会優位の政局に応じて、「新報」が「民友」をおさえていった。
(3)中央紙の進出と地方紙

中央紙の静岡県への進出は、1908・9(明治41・2)年ごろ、報知新聞が別冊として静岡県付録を添えて読者獲得に乗り出したのに始まる。1910(明治43)年国民新聞が静岡市に支局を置き、本誌の一部に紙面をさき、東海版として始めた。以後、やまと新聞が続き、報知も付録をやめ県版を出し、東京朝日ほかも続いた。
「民友」、「新報」ともに日露戦争ごろから活動資金に追われ、中央紙の進出も相次いだため、経営難に陥った。1916(大正5)年、「民友」は旧進歩系の機関紙を離れ、新聞トラストを標榜していた八千代生命社長の小原達明に身売りした。
1924(大正13)年の政友本党結成に当たっては、「新報」社長松浦五兵衛が政友本党に加わったため、「新報」も政友本党の機関紙となり、静岡新報社には政友本党静岡支部の看板が掲げられた。
1941(昭和16)年12月1日、一県一紙とする新聞統制により県下6新聞(民友、新報、浜松新聞、沼津合同新聞、清水新聞、熱海毎日新聞)を「静岡新聞」として統合し、現在に至る。

この近代新聞についての原稿は、静岡県近代史研究会会員 川上 努さんより提供を受けました。


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